果物さん時代

生成AIだけが情報技術の最先端ということはないと思うが、なんとなく生成AIこそが未来の技術という感じがするのは、それが手塚治虫的(藤子不二雄的といってもいいし、『マトリックス』的といってもいい)な未来のビジョンに沿ったものだからだろう。

こうなってくると俄然つまらない気分になる。
21世紀だというのに『21エモン』の世界に到達していないことにも、逆にそれに向かってはいるようであるということにも、どちらにも退屈さを感じる。
車はまだ空を飛ばないがいずれは飛ぶようになるだろう、というのが今の時代の位置する段階なわけだ。

もっと意外な未来のビジョンを描きたいがそれが難しいのは、未来という言葉の周辺にある言葉のためかもしれない。
例えば『未来的』という言葉には手塚治虫的なロマンが張り付いているが、これは本来の未来の定義とはほとんど関係がないはずだ。未来という言葉は到来していない時間を意味するに過ぎないわけだから。

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世界史における時代区分は、ローマの東西分裂までを指す『古代』、ルネサンスが起こるまでの『中世』、産業革命の『近世』、市民社会成立以降の『近代』、そして今の時代である『現代』と、現時点からの時間的距離に対応する形で呼称される。
これらの字面からは、
「なるほど、古い過去の『古代』があり、中くらい過去の『中世』があり、近い過去の『近世』『近代』があり、今の時代は『現代』か。そうすると、当然このあとには未だ来ていない時代である『未来』が到来することになるはずだ」
と、古代→中世→近世→近代→現代から一本の線で繋がるようなものとしての未来がイメージされる。

そもそも、時代区分の呼称を『古代』とか『近代』とかにしているのは、記録管理の観点からみれば実用性に欠けるのではないか。今の時代を現代と呼んでいるが、1000年後はどうするつもりなのか。十七世紀から十九世紀くらいまでのほんの200年程度を近代と呼んで、その後の1000年以上を現代と呼び続けるのだろうか
あるいは、パソコンのファイル名の付け方でよく笑いのタネにされる『作成中.doc』『最終.doc』『真・最終.doc』『真・最終(改).doc』みたいな感じで、『現代』『現代(改)』『現代(さらに改)』『現代4』とかいう風に呼ぶことになるのかもしれない。

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ある人が何か話している時、そこに外的な要因がないなら、これから話す内容は、これまで話した内容からナチュラルに繋がるものになるだろう。
その場に強盗が入ってくるとか、目を奪われるほどセクシーな人が通りかかるとかいった意外な出来事が起きない限り、あるいは言葉を選ぶにあたって何らかの制約(七五調だったり、押韻だったり)に従うことを求められない限り、人は連想しやすい言葉を繋げていくものだ。

こんな風に考えると、古代→中世→近世→近代→現代→未来という図式で考えた場合に、未来のビジョンが『未来的』になるのは当然のことのように思える。
時代の呼称に時間的距離を当てる場合、現代より後の時代に名前をつけることはできず、まだ到来していない時代のことは『未来』と呼ぶ以外にないが、その未来は現代のナチュラルな続きとしてイメージされることになり、現代における未来のイメージは『未来的』だからだ。

そこで、各時代区分の呼称の仕方を時間的距離から引き剥がした上で、そこに制約を与えてみる。例えば果物の名前をつけることにしてはどうか。リンゴさん時代とか、トマトさん時代とか。
今の時代を『現代』と呼ぶなら続く時代は『未来』と呼ぶしかないが、今の時代をブドウさん時代と呼ぶなら、続く時代はメロンさん時代かもしれないし、キウイさん時代やイチゴさん時代かもしれないわけだ。