日記

夜のジョギングは暗闇に向かうような感じで気分が沈むので朝走るようにしている。

走り出す前に簡単な柔軟体操をするようにしているが忘れることもあるので、その時は途中で立ち止まってやる。
公道とはいえ人の家の前で屈伸運動やら深呼吸やらするのは気が引けるが、交差点や曲がり角のところにある家の前なら準備運動ぐらいは許されるだろう。路上ライブなんかも住宅街でやるのは変だが、それでも交差点やT字路でならどうにか成り立つような気がする。

山の近くに住んでいるのでちょっとした坂がたくさんあって、少し登ると町を見下ろせるような場所がある。そこから長い階段を下って町の中心部に向かうわけだ。
ここ数年、こんな風な景色を見ると「君の名は」とか「天気の子」とかを思い出すようになったが、そういう人はけっこういるんじゃないだろうか。

果物さん時代

生成AIだけが情報技術の最先端ということはないと思うが、なんとなく生成AIこそが未来の技術という感じがするのは、それが手塚治虫的(藤子不二雄的といってもいいし、『マトリックス』的といってもいい)な未来のビジョンに沿ったものだからだろう。

こうなってくると俄然つまらない気分になる。
21世紀だというのに『21エモン』の世界に到達していないことにも、逆にそれに向かってはいるようであるということにも、どちらにも退屈さを感じる。
車はまだ空を飛ばないがいずれは飛ぶようになるだろう、というのが今の時代の位置する段階なわけだ。

もっと意外な未来のビジョンを描きたいがそれが難しいのは、未来という言葉の周辺にある言葉のためかもしれない。
例えば『未来的』という言葉には手塚治虫的なロマンが張り付いているが、これは本来の未来の定義とはほとんど関係がないはずだ。未来という言葉は到来していない時間を意味するに過ぎないわけだから。

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世界史における時代区分は、ローマの東西分裂までを指す『古代』、ルネサンスが起こるまでの『中世』、産業革命の『近世』、市民社会成立以降の『近代』、そして今の時代である『現代』と、現時点からの時間的距離に対応する形で呼称される。
これらの字面からは、
「なるほど、古い過去の『古代』があり、中くらい過去の『中世』があり、近い過去の『近世』『近代』があり、今の時代は『現代』か。そうすると、当然このあとには未だ来ていない時代である『未来』が到来することになるはずだ」
と、古代→中世→近世→近代→現代から一本の線で繋がるようなものとしての未来がイメージされる。

そもそも、時代区分の呼称を『古代』とか『近代』とかにしているのは、記録管理の観点からみれば実用性に欠けるのではないか。今の時代を現代と呼んでいるが、1000年後はどうするつもりなのか。十七世紀から十九世紀くらいまでのほんの200年程度を近代と呼んで、その後の1000年以上を現代と呼び続けるのだろうか
あるいは、パソコンのファイル名の付け方でよく笑いのタネにされる『作成中.doc』『最終.doc』『真・最終.doc』『真・最終(改).doc』みたいな感じで、『現代』『現代(改)』『現代(さらに改)』『現代4』とかいう風に呼ぶことになるのかもしれない。

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ある人が何か話している時、そこに外的な要因がないなら、これから話す内容は、これまで話した内容からナチュラルに繋がるものになるだろう。
その場に強盗が入ってくるとか、目を奪われるほどセクシーな人が通りかかるとかいった意外な出来事が起きない限り、あるいは言葉を選ぶにあたって何らかの制約(七五調だったり、押韻だったり)に従うことを求められない限り、人は連想しやすい言葉を繋げていくものだ。

こんな風に考えると、古代→中世→近世→近代→現代→未来という図式で考えた場合に、未来のビジョンが『未来的』になるのは当然のことのように思える。
時代の呼称に時間的距離を当てる場合、現代より後の時代に名前をつけることはできず、まだ到来していない時代のことは『未来』と呼ぶ以外にないが、その未来は現代のナチュラルな続きとしてイメージされることになり、現代における未来のイメージは『未来的』だからだ。

そこで、各時代区分の呼称の仕方を時間的距離から引き剥がした上で、そこに制約を与えてみる。例えば果物の名前をつけることにしてはどうか。リンゴさん時代とか、トマトさん時代とか。
今の時代を『現代』と呼ぶなら続く時代は『未来』と呼ぶしかないが、今の時代をブドウさん時代と呼ぶなら、続く時代はメロンさん時代かもしれないし、キウイさん時代やイチゴさん時代かもしれないわけだ。

イエスの贖い

エスは私たちの罪を贖うために十字架にかかったとされる。
また、イエスは「いま」「ここ」にいるとも言われる。
ということは、イエスは2000年の時を超えて人間全員のそばにいて、その罪を贖っているということになる。

この点だけを取り上げると、イエスの贖いは、ある程度恵まれた境遇にあり、かつ犯した罪を自ら背負うだけの強さを持たない人間のための慰めでしかないように見える。恵まれない境遇にあるものも罪は犯すが、それをイエスによって贖われて神に許されたところで、現世で被っている不幸のために、それが救いとはならないはずだからだ。

だが、そうではないだろう。
エスが「未来永劫ココにいる」という風にはあまり聞かない。
そうだとすれば、未来の罪についてまで贖うとはイエスは言っていないのではないか。

小説などで、「一人殺すのも二人殺すのも一緒だ」というような台詞が出てくることがある。その場面にイエスの贖いを当てはめてみる。
一人目を殺した時点で、イエスは「いま」「ここ」にいて、その罪は贖われる。そこで、その罪人はもはや罪人ではなくなる。そうすると、彼がもう一人殺そうとするとき、それは新たな一人目として殺すことになり、「一人殺すのも二人殺すのも一緒」ではなくなってしまう。
よって、これから犯すつもりの二件目の殺人には一件目と同じだけの罪を背負う覚悟をしなくてはならないが、それを遂行したときにはイエスはもういないかもしれないのだ。

三木道三「キミにミキ」

ラッパーが既にある曲の歌詞の一節を自身のラップに織り込む技法のことをサンプリングと呼ぶのを目にすることがある。
流行りの用法なのかヒップホップの世界で長年使われてきた用法なのか分からないが、違和感のある用法だと思う。この場面なら引用という言葉を使えば足りるからだ。

サンプリングは引用の一種であると言って差し支えないと思うが、そうであればサンプリングを引用一般から分ける要素は何なのかと考えてみると、それは引用元と引用先それぞれの作品の間の距離感ではないかと思う。

音楽用語としてのサンプリングは、通常、録音した音源を新たな録音作品またはライブ演奏の中で再生することを指す。
ここで効果的に働くのは、引用元の作品への敬意や批判だったり引用先の作品への接続の上手さだったりではなく、むしろ二つの作品の関係の無さだ。

これは美術でいうところのコラージュと似たものと言って良いだろう。
例えば、ある雑誌から切り抜いた右向きの人の写真と、別の雑誌から切り抜いた左向きの人の写真を、両者が向かい合うようにある風景写真に張り付けるとする。
これらの人物は、受ける光の角度の違いとかパースの狂いとかの理由で、背後の風景から浮いて見えるだろう。また人物同士も、向かい合っているにも関わらず視線が交差しないために奇妙な雰囲気を生み出すだろう。

音楽におけるサンプリングも同じだ。
要はブツ切りの感じがサンプリングの魅力なのだ。

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三木道三のメジャーデビュー前の曲を集めた「三木道三スタイル1995~1998」というベスト盤があり、その中に「キミにミキ」という曲がある。
リーナという女性シンガーが失恋の歌詞を歌うサビと、三木が「気持ちを切り換えて俺と付き合えよ」的な歌詞を歌うバース部を繰り返すシンプルなナンバーだ。

こうして要約すると、リーナと三木がそれぞれ歌う内容はしっかりリンクしているように見えるが、曲を聴いてみると、二人は別の世界線に生きているのではないかというくらいノリが違う。例えるなら「君に届け」の世界観に「グラップラー刃牙」のキャラクターが出てくるような感じだ。
このベスト盤に収録された、同じく女性シンガーであるMAMA COOKとのデュエット曲「いいことあるかも」にはこんな違和感はない。

そのため、てっきり「キミにミキ」はリーナの既存曲からボーカルをサンプリングして別の曲に仕上げたものだと思い込んでいたのだが、先日ユーチューブでこの曲の別バージョンを見つけた。
この別バージョンでは、三木だけでなくリーナのパートもベスト盤のバージョンとは別のテイクが使われている。それだけでなく、リーナの歌うメロディーも歌い回しのニュアンスもベスト盤のバージョンとは違って、三木の歌に寄り添う感じのものになっている。

これはつまり、リーナのパートは別の曲からのサンプリングではなく、そもそもこの曲のために歌われたものだったということだろう。

日記

電車やバスの中で担ぐなら、ギターよりも断然サーフボードがカッコイイ。サーフボードはそれらの乗り物が想定するサイズを超える感じがあるからだ。
または薙刀もいい。天井までの近さと形状の細さを考えると、こちらの方がよりカッコイイかもしれない。

同じく大きな荷物だが、自転車はあまりかっこよくない。スーツケースやバックパックもイマイチだ。
これらは、自身がまさに置かれている場である電車・バスと、「移動」という要素を共有している。重複するのはカッコ悪い。

それなら、三輪車は?
まず、庭または家の周辺までしか出ることのできない子どもの乗り物を、移動の道具とはいえない。
「乗り物」という点では電車・バスと被るが、三輪車までのスモールサイズになると、(さすがにカッコイイとはいえないが)親亀の背中に乗る小亀みたいでかわいらしい気がする。

学園祭学園「wants」

〔曲構成〕
前奏→Aパート→間奏→Aパート→Bパート
→Aパート→間奏→Aパート→
Bパート→Aパート→後奏


〔コード進行〕
■前奏
G D Em C
G D Em C
G D Em C
Am7 Cm

■Aパート
(前奏と同じ進行)

2回目のBパートの直前のシークエンスのみ以下のとおり
G D Em C
G D Em C
G
Am7 Cm

■間奏
(前奏と同じ進行)

■Bパート
《1回目》
D Em
D Em
D Em
Am7 Cm
《2回目》
D Em
D Em
D Em
Am7 Bm7 C D

■後奏
(前奏と同じ進行)

 

〔楽曲解説〕
パーティーにぴったりの、グルーヴィーで楽しいナンバーだ。
Bパートを除いて、同じ8小節のシークエンスが繰り返されるシンプルな構成なので、一人で弾き語りする場合は緩急をつけた演奏を心がけよう。
ボーカルのキーがとても高いので、男性が歌うのであれば2~3音程度下げると良いかもしれない。

各パートの意味合いとしては、Bパートがコーラス部(サビ)にあたり、Aパートが、置かれた箇所に応じてバースやブリッジの役割を果たしているといえるだろう。

演奏する上でもっとも気を付けたいのは、各パートの最後のCmコードのところ。
ここはメジャーコードでも違和感がなく、むしろマイナーコードを使う方がイレギュラーだといえる。
ギター歴の長いプレイヤーほど手クセでメジャーコードを押さえてしまいがちなところだが、ここでマイナーコードが来るのがこの曲のポイント。
曲全体を通して繰り返し現れるコードだが、「1回くらい間違えても良いや」なんて思わずに、しっかり練習しよう。

また、Aパートのボーカルメロディは、短いシークエンスだが、おしりの2小節に盛り上がる部分がある。
ここを全ての繰り返しで同じテンションで歌ってしまうと、途中でダレてしまうので注意。
コーラス部に向けて徐々に気持ちをアゲていけるよう、歌詞の意味をよく味わって歌おう。

日記

今年はハロウィンが全く盛り上がらなかったのでクリスマスに期待していた。
さらに今日は休日のクリスマスイブということで、賑わいを肌に感じるべく街に出掛けようと思っていたのに、結局この時間までずんだもん動画を見ていた。

後は異文化交流系の動画だ。クリスマスの過ごし方が日本と欧米で違って、日本は恋人と過ごすが欧米は家族と暮らすとか、日本ではケンタッキーのチキンを食べるが欧米ではあり得ないとかなんとか。これも毎年のことだ。

アニメマニアの間でクリスマスにはスクールデイズTVシリーズを一気見する習慣があるらしいので、俺も来年はそうする。今年は体力が残ってないのでもうダメだ。