こんにちは

父と暮らしているが、一人で過ごすのが好きなので、休日も正午を過ぎるまで自分の部屋で過ごして父と顔を合わせなかったりする。
その間、僕は音楽を聴いたりするし、父の方でもテレビを見たりするので、互いに活動している気配は感じている。

そこで、昼過ぎくらいにトイレに行ったときに本日はじめましてのご挨拶となったりするわけだが、そのときの挨拶にいつも困る。
目を覚ましてから既に充分に活動しているわけだから「おはよう」はおかしい。しかし、「こんにちは」はもっと変だ。「こんにちは」は世間向けの挨拶という感じがする。

とはいえ無言というわけにもいかないので、「おあ」とか「うい」みたいな、文字に起こしづらい音を発することで代用している。
そんなとき、いくらかきまりの悪い気分を味わうことになるが、それが家族というものだという気もする。

松村優里香 個展『Somewhere and Nowhere』(会場:IAF SHOP* 会期:2026.5.23(土)~6.7(日))

旅先で街を散策するときのような楽しさがある展示だったが、それは自分が旅行に行くときに写真に撮るような風景が描かれているからかもしれない。

展示は二つのコーナーに分かれていて、それぞれ『Simultaneous』と『Traces of Somewhere and Nowhere』という絵画作品のシリーズが展示されている。
いずれのシリーズの作品もいくつかに分割された画面で構成されていて、モチーフは河あるいは水面だ。

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『Simultaneous』シリーズの作品はすべて、ある日のビデオ通話のスクリーン録画から5つの瞬間を切り取って模写したものとのことで、通話の端末はスマホだ。

それらの通話セッションは長崎に住む作家と海外のいくつかの街に住む友人達との間でなされたものだ。
作家のスマホは上に通話相手のカメラの、下に自身のカメラの映像が表示される設定になっているとのことだが、そのカメラは自身の顔ではなく、各々が住む街を流れる河に向けられている。

そんなわけで、それぞれの作品の画面には、上半分と下半分で違う街が描かれた縦長のピースが横に5つ並ぶことになる。
1つのピースに注目すれば、作家側は昼間で相手側は夜だったり、あるいはその逆だったりで、上半分と下半分ではっきりとしたコントラストをなしている。

それに対して、横に並んだ5つのピース同士を比べてみると、そこに大きな違いはない。これは作品のモチーフたるそれぞれの通話セッションで、作家側のカメラも相手側のカメラも同じ視点から同じ河を撮り続けたためだろう。
あるいは、どちらかが通話中に移動したものと思われるが、5つのピースの内の1つか2つだけ大きく景色が変わっているという作品もあるにはある。しかし、ほとんどの作品で、描かれた5つのピースには、河に映った建物が水面の揺らぎによって歪むその歪み方が違うという程度の違いしかない。

刺激の少ない風景を眺めるときに、人は「ゆったりと時間が流れている」などと言ったりするが、あれは時の流れを遅く感じているというよりは、時間を主観的に捉えているのではないかと思う。
例えばお気に入りの場所から街を眺めるとき、ストップウォッチで測られる時間とは関係がないような、その時間が5秒でも5分でもさほど違いがないようなーーしかし、それが1時間ともなると流石に違って感じるようなーー、そんな風に時の流れを感じることがある。
それはコンマ何ケタ秒という具合に限りなく分割されていくような時間ではなく、ひと時を過ごしたその思い出ごとに区切られて、それ以上細かく切り分けることはできないようなものとして感じられる時間だ。

誰かと会話していて退屈だと感じたとき、時間を無駄にしたと思ったりするが、過ごした時間の価値を判断できるのは、量を測ることができるものとして時間を捉えるからだ(そうでもないかもしれない)。
しかし、もっと主観的なものとして時間を捉えることもできるのではないか。過ごした時間を評価しようとするとき、その時間にいるのは私の本体ではないという気がする。
よく「人は何かに夢中になっているとき、それが楽しいかどうか考えたりしない」なんて言ったりするが、これはそういった方面の話だ。

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もう一つの『Traces of Somewhere and Nowhere』というシリーズでは、各作品は、B4サイズくらいの画用紙に縦長の長方形のピースが横に4つ並ぶという構成で描かれている。
こちらはビデオ通話のスクリーン録画ではなく、自らスマホで撮影した1秒間の動画から、4つの瞬間を切り取ったものを模写して並べるという方法で制作されているとのことである。

このシリーズでも水面が描かれているが、その背景となる街並みなどは描かれず、それが河なのか池なのか、あるいはもしかするとただの水たまりなのか、わからない。
場所が変わることで水面の様子が変わるということがあるだろうかと考えてみるが、水面の違いを見分けようとして河(や池)を観察したことがないから分からない。
しかし気分の上では、岸辺の街並みを視界に入れずに水面だけを眺めるとしても、場所が変わることで河の見え方は変わる。それは街の風景やその場所に来るまでの道程の記憶が、視界に入らなくとも意識はされるからだろう。

とはいえ、見る者は作家と記憶を共有しているわけではない。
ある作品では夕暮れ時っぽかったり、ある作品では真夜中っぽかったりする、それぞれどこの河(または池)なのかもよく分からない水面が描かれているだけだ。
しかし、描かれた水面が地球上のどこかである以上、画面外のどこかには岸があるはずだ。それがどんな風景なのかは分からないままに、そこにある街並みをーー微かにではあるがーー意識しながら見ることになるので、描かれた4ピースの水面の絵は奇妙なロマンを持つことになる。

また、それぞれの作品は上下それぞれの端から5cmくらいの幅が黒く塗られており、下の黒塗り部分の右側に寄せる形で、撮影された時刻を示すタイムスタンプとその場所の経緯度を示す座標が記されていて、その様子はなんとなくフィルム写真を思わせる。
それらの数字は活字風に描かれていて、これはどういうことかと作家に尋ねたところ、河原温というアーティストにその日の日付をレタリングする作品シリーズがあり、そのシリーズで使われる書体を模してレタリングしたものだということだった。

タイムスタンプも経緯度も文字情報なので、普通にペン書きしても、あるいはタイピングしても、内容は変わらない。それを、わざわざ特定のフォントを模してレタリングすることは、作品においてどのような意味を持つのだろうか。

時刻にしろ経緯度にしろ、十進法で表現されるその数字に本質的な意味はないはずだ。十進法は人間の発明したものだが、本来、時刻も経緯度も天体の動きや地軸と観測地点との関係によって、人間の存在とは無関係に決まるものだからだ。
さらにここで描かれているのは、特定の書体で表示される数字だ。この極めて人工的なものを描写の対象とするのは歪な感じがする。それは偶然与えられた条件からそうなったに過ぎないものーー十進法はヒトの指が左右合わせて十本であることから生まれたといわれているーーを必然と捉えることだからだ。
これは、例えば同じく人工物という言葉で表現できるボールペンをスケッチすることとは全く別物だ。
ボールペンの姿形はボールペンの機能とかなりの程度関係しているが、ある書体の数字の姿形はそこで表されている数値とは全く関係がない。

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会場に貼られた作家によるステートメントで生成AIのことに触れていて、そこには『Traces of Somewhere and Nowhere』で模写された水面の画像の中には生成AIによって描画されたものも混じっているという風に書かれている。
しかし、どれがAI生成の画像を模写した作品なのかは示されておらず、これらの作品は生成AIをとりまく文化の在り方についての批評を含むものとして見ることができると思った。
そのように見る場合、それはアニメの『イヴの時間』のロボットピアニストのエピソードのような方向性の批評であるということになりそうだ。

『イヴの時間』のそのエピソードを要約するとこんな風だ。
かつてピアニストだった主人公の少年は、過去にロボットによる名演を聴いたときのショックでピアノを弾くことができなくなってしまった。しかし時が経ち、いくつかの経験を経たことで、彼は「私が演奏を楽しめるのであれば、ロボットが私よりも良い演奏をするかどうかは問題ではない」という結論に至ることとなる。
それは15分程度の短いハッピーエンドのエピソードで、私はここで、この個展もそのような方向性のメッセージを持つものと見ることができると言っているわけだ。

しかし、そこまでのことは表現していないものとして見る方が楽しい。
ここで、AIについての批評となっている云々という私の見立てが的を射ているかどうかは重要ではない。
それぞれの作品や会場に貼られたステートメントには見る者に思索を促すような魅力があるが、その上で、作品に現れている以上のこと、自らの脳内で考えを巡らせたことは、作品を見る際には忘れていた方が楽しい。

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えらくとっ散らかった文章になってしまったが、それはこの個展が、見た目のスッキリとした印象に反して雑多な要素を持っているからだろう。

日記

通勤の際、乗り換えにつかう駅があって、そこは地上を走る路線と高架を走る路線が交差する形になっている。
朝出勤するときには高架を走る方の路線に乗って、この乗り換え駅で降りる。それから街に向かう電車が来るまで15分ほどタイムラグがある。

街へ向かう電車は地上側の路線なわけだが、そちらのホームはベンチが少ないので、いつも高架側のホームのベンチに座って待つ。そこから、隣町との境界あたりを通る高速道路をクルマが走っていくのが遠くに見える。

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このような光景から、様々なストーリーを思い描くことができる。
今は疎遠になったかつての仲間と遠方へのドライブを楽しんでいた若い頃のことを思い出したり、高速道路が設置される前の風景をイメージして街の姿の移り変わりについて想いを巡らせたり、あるいは、視点をグッと近づけて、細い道路を挟んだところにある図書館に目を向けることもできる。

情緒的な詩を書くとき、つい私はこんな風に目につくものから着想しようとするが、これは多くの人がそうなんじゃないかと思う。

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子供の頃、夜に高速道路を走っていたときに父が言ったセリフでよく覚えているものがある。それは「お前達にとっては、この電灯の並びが原風景になるんだろうな」というものだった。

このセリフはかなり私に効いていて、一家がちゃぶ台を囲んでいたりする、いわゆる日本の原風景として提示されるイメージを、私は我が物と思えない。

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私のこの乗り換え駅は改札が2階にあるので、この駅で切符を買って街へ向かう場合は、清川移転後のユーテロみたいに一度階段を登って改札を通って、また階段を降りる必要がある。
この駅を最寄りとするミュージシャンは10年前にユーテロが移転したときにこの駅のことを思い出したかもしれない。

松崎竜一展(会場:IAF SHOP* 会期:2025.10.21~30)

竜一さんの作品にあまりロマンチックな感じはないが、俺はロマンチストなので、彼の作品について語るのもロマンチックになってしまう。

何のために作品を作るのか。
作るのが好きだからとか、追求したいテーマがあるからとか、伝えるべきメッセージがあるからとか、その答えは様々だと思う。
何のためなのか分からないがそれでも作るのだ、という姿勢もありえる。

俺は竜一さんのこれまでの作品が好きだし、新しい作品も見たいので、制作も展示も続けて欲しいわけだが、それは見る側の思いだ。

見せる側の思いはどうか。
彼の作品も、それぞれの作品を構成するひとつひとつの要素も、そこに現れることに戸惑っているような印象を受ける。
最近の作品によく描かれるS字型のモチーフにも、それが持つ可能性を追求するというような意図は感じられない。気づけばしばしば描くようになっていたのでこの絵でも描いているーーが、別の絵では描かないこともあるーーという程度の意図しかないように見える。
そのためか竜一さんの作品に、あまり説得力のようなものは感じない。

そんな風に言うと無造作な作品をイメージするかもしれないが、そういうわけでもない。無造作さは我が身を振り返らないが、彼の作品には自らの存在意義を問う感じがある。
その上で、そこに答えを出さないまま描かれている、というような印象を彼の作品からは受ける。それぞれの線に、描くべきかと迷う瞬間から描かれて画面上に現れた瞬間までの、ほんの短い時間の痕跡が残っているように感じられるのだ。

いいバンド

今日は清川ユーテロに神棚on the wall主催のイベント「夜をねり歩く」を見に行きました。

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マチュアまたはインディーズバンドのコミュニティで、「いいバンド」という言い回しを聞くことがあります。
これはもちろん、そのバンドの表現が良いという意味ですが、このフレーズそのものが一つの慣用句となっているようなところがあります。

「いいバンド」というのと、良い表現をしているバンドというのは、少し意味がちがうわけです。

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とはいえ、あるバンドをいいバンドだというとき、大抵は、そのバンドの表現を良くさせる要素と、見る者に「いいバンド」と感じさせる要素はイコールで、その良さを分析的な面から語る場合は、このバンドのアレが良いとかコレが良いとか言うのに対して、エモーショナルに語る場合には同じそれらの要素を総括して「いいバンドである」と言う、といった具合です。
しかしときどき、ある一つの要素が、バンドの魅力を形作る他の様々な要素よりも目立って強く「いいバンド」感に影響している、というようなバンドがあって、今夜出演した超右腕もそんなバンドの一つです。

このバンドの表現を良くさせている要素は、楽曲や、特徴的なボーカルスタイルを含む演奏の完成度などなわけですが、バンドを「いいバンド」たらしめている要素の中心は、メインボーカルでない方のギタリストのギタープレイな気がします。もちろん、彼女のギタープレイも他の要素と同様、バンドの表現を良くさせる要素に含まれるわけですが、それらの他の要素と比べて彼女のプレイは、このバンドの「いいバンド」感への影響が飛び抜けて強い感じがするのです。

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彼女のプレイには、弦を押さえ、弾く、その両手指の動きが、ギターアンプから音として現れるまでの間に、何かガラス板のようなものを一枚通っているような、不思議な感じがあります。
あのレベルまで熟練すれば、ギターもアンプも、その間の回路に噛ませる様々な機材も、自分の身体の延長のように自由自在に操れるはずですが、
彼女のプレイは、その熟練度に似合わず楽器を持て余しているような印象を受けます。

こんな風に思われるのは、彼女のあのふてぶてしい顔の表情や、どこか投げやりさを感じる立ち居振る舞いも手伝ってのことと思います。それらの要素が、彼女を不器用なキャラクターに見せるわけです。

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鮎川誠が、少年時代に初めてステージに立ったときのことを、「アンプがギャーンと鳴った瞬間に、これがロックだと思った」みたいに語るインタビュー記事を読んだことがあります。
ロックが何らかの芸術的表現だとすれば、彼がここでロックと呼んでいるものはロックに値しないでしょう。彼がここで感動しているのは、電気の力で増幅された音の迫力であって、どんな意味でも作品とは呼べないものです。
少年達がオートバイのパワーにしびれる感覚とオートレーサーがレース中に感じる興奮はおそらく別物かと思いますが、それと似たような話です。

そう考えると、初めてギターを持った頃にアンプから出る音の迫力に感じる興奮は、それを扱い慣れていないことの裏返しでもあるわけですーーお気に入りだが着慣れない、よそゆきの洋服みたいに。
それから、経験を重ねて扱い慣れることで、思い通りの表現ができるようになっていくわけです。

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そのよそゆきの服を、すっかり着こなせるようになって、クローゼットに掛けられた他の洋服たちと同じくらい自らに馴染んでからも、相変わらずお気に入りとして扱って、着るたびに丁寧にブラシをかけているーー彼女のギタープレイに感じる印象を何かに例えるなら、そんな感じです。

今夜の彼らのステージを見て、彼女のプレイが醸し出す始めたての頃のようなワクワク感とバンド演奏の完成度の混ざり具合が不思議な魅力を生んで、それが彼らの「いいバンド」感につながっているというような気がしました。

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今夜のイベントでは、超右腕の他に、主催の神棚on the wallと、2907831が出演していました。
超右腕に関しては自分の中で発見があったので色々と書いたわけですが、神棚と29のステージももちろん素晴らしかったです。(CDも買いましたしね。)

『三頭の虎と裸の胸の女』 (2025.7.26~8.2にart space tetraで開催されたユン・ヘジョンの個展『Tigers and Women』内の映像作品)

ドキュメンタリーと呼ぶには美しく、美術作品と呼ぶには物語がある。かといって映画と呼ぶには個人的すぎる。
そういう意味で、テトラのような場所ーー洗練された展示会場であると同時に、作家と客のしゃべる声が聞こえてくるような親密な雰囲気のある場所ーーでの上映が最もしっくり来るという感じがした。

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特に下調べもせずに見に行ったので作家のことをよく知らないが、作品の中で韓国出身であることが語られている。

映像は、作家が自身の生い立ちをごくごくニュートラルに語る場面から始まる。
そこで幼い頃にJ-POPのアイドルに夢中だったとの話があり、最初、これは日本の少女がワンダイレクションに憧れるのと同じようなものかと思ったが、そんなシンプルなものではないのかもしれない。この後に日本の植民地支配について語る場面が続くからだ。

映像に付けられたナレーションによれば、日本が朝鮮半島を支配するにあたり虎を狩ることが象徴的な意味を持っていたということだ。
虎は朝鮮半島で英雄的なものとして扱われてきたから、と。

日本には虎は生息していない。
虎の生息の有る無しで文化を考えたことはなかったが、改めて考えてみると、色彩の感覚などに一定の影響があるように思える。

日本人は徹底的に朝鮮半島の虎を狩り、ついには絶滅させたということだ。
虎を強さの象徴とする民族が虎のいない土地の民族に支配され、その上、自らの誇りである虎を絶滅させられるというのは、それは屈辱的なことだろう。
民族意識の弱い私でも、仮に敗戦の際にアメリカ人にソメイヨシノをすべて伐られたというようなことがあったと想像すれば屈辱的に思う。

虎狩りについての話に続いて、タイトルにある『裸の胸の女性』という言葉どおりに乳房だけを露出させた服を着た女性たちの写真が何枚か映され、当時の女性たちが連行され性暴力を受けた歴史が語られる。
胸が剥き出しの服は、それを着せられる者はただ性的にのみ見て構わない存在である、という意味合いを持つのだろうと思う。

民族というものを考えなければ、より非道な出来事は『裸の胸の女性』の方だ。
そして、作家も私と同じく民族意識は強くないのではないかという気がする。

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当然のことだが、作家にとっての虎狩りと私にとっての桜の伐採を並列には語れない。
私にとって桜は、春の風物詩として毎年鑑賞してきた自身の思い出と結び付いているのに対し、作家にとって虎は、生まれる前に死に絶えた文化だからだ。
自らのものとなるはずだった文化が、生まれる前に死に絶えてしまった。このことが、この作品に独特の視点を持たせている。ーー虎を狩り尽くされたことは、若者世代の作家にとってどのような意味を持つのか。

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私の想像どおり作家の民族意識は強くないと仮定すると、何が作家にこの作品を撮らせたのかという疑問が湧くことになる。この作品の視点はどの立場なのか。

ヒューマニストとしての視点というのはあり得る。こんなにも罪深い出来事があり、加害者がその罪を十分に償っていないことへの問題提起をしようというのは制作の動機として真っ当だ。
しかし、それでもない気がする。この作品は怒るよりは悲しんでいるように思える。それもどちらかといえば慈悲の念というよりは自らの悲しみとして。

この視点の不明瞭さは、私に、私の視点からーー民族意識が弱いが無いわけではなく、思想としては左寄りだが排外主義的なデマにいちいち動揺もする意志薄弱な日本人の中年男性であり、そして何より、初恋の思い出や挫折の経験といった固有の記憶を持つ、そんな私の視点からーー歴史をあるいは社会を見るようにと促すように感じる。
この作品で扱われるテーマにおいて、私は加害者側の民族だが、自分が生まれる前の出来事に対して罪悪感を持つのはナンセンスだ。とはいえ、まったくの他人事として見ることもできない。そのような据わりの悪い立ち位置からこそ、物事をみるべきなのではないか。

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作品の最後の方(だったと思うが・・)に、走るクルマの窓から夕焼けの湖を撮った映像に被せて、日本を訪れた際の親切な女性とのエピソードが語られる場面があり、とても美しいシーンだった。

理屈の上では、倫理的なテーマにおいて美しさはーー特に花鳥風月的な、直感的な美しさはーー不要に思える。
しかし、この作品においては、牧歌的とさえいえそうな夕暮れの美しさが、作品の倫理的な部分に強く影響しているような気がする。

ユーチューブから

ユーチューブで「ナンバーガール 透明少女」のキーワードを検索すると、割と上の方に、1999年のライジングサンフェスに出演したときの映像が上がってくる。

その映像に「あるいはから話し始めるのわけわからなくてすごい」というコメントがついているのだが、そのコメントに対する返信として、その前に『あるいは』に自然に繋がるような話があった上で『あるいは』と言っているのだ、と事情を説明するコメントが並んでいる。

それらの返信コメントに混じって、「いろいろ言ってるやついるけど、アンタのコメント大好きだよ」というコメントが投稿されていて、これが非常に良い。

解き明かさない方が良いこともあるのだ。