旅先で街を散策するときのような楽しさがある展示だったが、それは自分が旅行に行くときに写真に撮るような風景が描かれているからかもしれない。
展示は二つのコーナーに分かれていて、それぞれ『Simultaneous』と『Traces of Somewhere and Nowhere』という絵画作品のシリーズが展示されている。
いずれのシリーズの作品もいくつかに分割された画面で構成されていて、モチーフは河あるいは水面だ。
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『Simultaneous』シリーズの作品はすべて、ある日のビデオ通話のスクリーン録画から5つの瞬間を切り取って模写したものとのことで、通話の端末はスマホだ。
それらの通話セッションは長崎に住む作家と海外のいくつかの街に住む友人達との間でなされたものだ。
作家のスマホは上に通話相手のカメラの、下に自身のカメラの映像が表示される設定になっているとのことだが、そのカメラは自身の顔ではなく、各々が住む街を流れる河に向けられている。
そんなわけで、それぞれの作品の画面には、上半分と下半分で違う街が描かれた縦長のピースが横に5つ並ぶことになる。
1つのピースに注目すれば、作家側は昼間で相手側は夜だったり、あるいはその逆だったりで、上半分と下半分ではっきりとしたコントラストをなしている。
それに対して、横に並んだ5つのピース同士を比べてみると、そこに大きな違いはない。これは作品のモチーフたるそれぞれの通話セッションで、作家側のカメラも相手側のカメラも同じ視点から同じ河を撮り続けたためだろう。
あるいは、どちらかが通話中に移動したものと思われるが、5つのピースの内の1つか2つだけ大きく景色が変わっているという作品もあるにはある。しかし、ほとんどの作品で、描かれた5つのピースには、河に映った建物が水面の揺らぎによって歪むその歪み方が違うという程度の違いしかない。
刺激の少ない風景を眺めるときに、人は「ゆったりと時間が流れている」などと言ったりするが、あれは時の流れを遅く感じているというよりは、時間を主観的に捉えているのではないかと思う。
例えばお気に入りの場所から街を眺めるとき、ストップウォッチで測られる時間とは関係がないような、その時間が5秒でも5分でもさほど違いがないようなーーしかし、それが1時間ともなると流石に違って感じるようなーー、そんな風に時の流れを感じることがある。
それはコンマ何ケタ秒という具合に限りなく分割されていくような時間ではなく、ひと時を過ごしたその思い出ごとに区切られて、それ以上細かく切り分けることはできないようなものとして感じられる時間だ。
誰かと会話していて退屈だと感じたとき、時間を無駄にしたと思ったりするが、過ごした時間の価値を判断できるのは、量を測ることができるものとして時間を捉えるからだ(そうでもないかもしれない)。
しかし、もっと主観的なものとして時間を捉えることもできるのではないか。過ごした時間を評価しようとするとき、その時間にいるのは私の本体ではないという気がする。
よく「人は何かに夢中になっているとき、それが楽しいかどうか考えたりしない」なんて言ったりするが、これはそういった方面の話だ。
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もう一つの『Traces of Somewhere and Nowhere』というシリーズでは、各作品は、B4サイズくらいの画用紙に縦長の長方形のピースが横に4つ並ぶという構成で描かれている。
こちらはビデオ通話のスクリーン録画ではなく、自らスマホで撮影した1秒間の動画から、4つの瞬間を切り取ったものを模写して並べるという方法で制作されているとのことである。
このシリーズでも水面が描かれているが、その背景となる街並みなどは描かれず、それが河なのか池なのか、あるいはもしかするとただの水たまりなのか、わからない。
場所が変わることで水面の様子が変わるということがあるだろうかと考えてみるが、水面の違いを見分けようとして河(や池)を観察したことがないから分からない。
しかし気分の上では、岸辺の街並みを視界に入れずに水面だけを眺めるとしても、場所が変わることで河の見え方は変わる。それは街の風景やその場所に来るまでの道程の記憶が、視界に入らなくとも意識はされるからだろう。
とはいえ、見る者は作家と記憶を共有しているわけではない。
ある作品では夕暮れ時っぽかったり、ある作品では真夜中っぽかったりする、それぞれどこの河(または池)なのかもよく分からない水面が描かれているだけだ。
しかし、描かれた水面が地球上のどこかである以上、画面外のどこかには岸があるはずだ。それがどんな風景なのかは分からないままに、そこにある街並みをーー微かにではあるがーー意識しながら見ることになるので、描かれた4ピースの水面の絵は奇妙なロマンを持つことになる。
また、それぞれの作品は上下それぞれの端から5cmくらいの幅が黒く塗られており、下の黒塗り部分の右側に寄せる形で、撮影された時刻を示すタイムスタンプとその場所の経緯度を示す座標が記されていて、その様子はなんとなくフィルム写真を思わせる。
それらの数字は活字風に描かれていて、これはどういうことかと作家に尋ねたところ、河原温というアーティストにその日の日付をレタリングする作品シリーズがあり、そのシリーズで使われる書体を模してレタリングしたものだということだった。
タイムスタンプも経緯度も文字情報なので、普通にペン書きしても、あるいはタイピングしても、内容は変わらない。それを、わざわざ特定のフォントを模してレタリングすることは、作品においてどのような意味を持つのだろうか。
時刻にしろ経緯度にしろ、十進法で表現されるその数字に本質的な意味はないはずだ。十進法は人間の発明したものだが、本来、時刻も経緯度も天体の動きや地軸と観測地点との関係によって、人間の存在とは無関係に決まるものだからだ。
さらにここで描かれているのは、特定の書体で表示される数字だ。この極めて人工的なものを描写の対象とするのは歪な感じがする。それは偶然与えられた条件からそうなったに過ぎないものーー十進法はヒトの指が左右合わせて十本であることから生まれたといわれているーーを必然と捉えることだからだ。
これは、例えば同じく人工物という言葉で表現できるボールペンをスケッチすることとは全く別物だ。
ボールペンの姿形はボールペンの機能とかなりの程度関係しているが、ある書体の数字の姿形はそこで表されている数値とは全く関係がない。
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会場に貼られた作家によるステートメントで生成AIのことに触れていて、そこには『Traces of Somewhere and Nowhere』で模写された水面の画像の中には生成AIによって描画されたものも混じっているという風に書かれている。
しかし、どれがAI生成の画像を模写した作品なのかは示されておらず、これらの作品は生成AIをとりまく文化の在り方についての批評を含むものとして見ることができると思った。
そのように見る場合、それはアニメの『イヴの時間』のロボットピアニストのエピソードのような方向性の批評であるということになりそうだ。
『イヴの時間』のそのエピソードを要約するとこんな風だ。
かつてピアニストだった主人公の少年は、過去にロボットによる名演を聴いたときのショックでピアノを弾くことができなくなってしまった。しかし時が経ち、いくつかの経験を経たことで、彼は「私が演奏を楽しめるのであれば、ロボットが私よりも良い演奏をするかどうかは問題ではない」という結論に至ることとなる。
それは15分程度の短いハッピーエンドのエピソードで、私はここで、この個展もそのような方向性のメッセージを持つものと見ることができると言っているわけだ。
しかし、そこまでのことは表現していないものとして見る方が楽しい。
ここで、AIについての批評となっている云々という私の見立てが的を射ているかどうかは重要ではない。
それぞれの作品や会場に貼られたステートメントには見る者に思索を促すような魅力があるが、その上で、作品に現れている以上のこと、自らの脳内で考えを巡らせたことは、作品を見る際には忘れていた方が楽しい。
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えらくとっ散らかった文章になってしまったが、それはこの個展が、見た目のスッキリとした印象に反して雑多な要素を持っているからだろう。