イエスの贖い

エスは私たちの罪を贖うために十字架にかかったとされる。
また、イエスは「いま」「ここ」にいるとも言われる。
ということは、イエスは2000年の時を超えて人間全員のそばにいて、その罪を贖っているということになる。

この点だけを取り上げると、イエスの贖いは、ある程度恵まれた境遇にあり、かつ犯した罪を自ら背負うだけの強さを持たない人間のための慰めでしかないように見える。恵まれない境遇にあるものも罪は犯すが、それをイエスによって贖われて神に許されたところで、現世で被っている不幸のために、それが救いとはならないはずだからだ。

だが、そうではないだろう。
エスが「未来永劫ココにいる」という風にはあまり聞かない。
そうだとすれば、未来の罪についてまで贖うとはイエスは言っていないのではないか。

小説などで、「一人殺すのも二人殺すのも一緒だ」というような台詞が出てくることがある。その場面にイエスの贖いを当てはめてみる。
一人目を殺した時点で、イエスは「いま」「ここ」にいて、その罪は贖われる。そこで、その罪人はもはや罪人ではなくなる。そうすると、彼がもう一人殺そうとするとき、それは新たな一人目として殺すことになり、「一人殺すのも二人殺すのも一緒」ではなくなってしまう。
よって、これから犯すつもりの二件目の殺人には一件目と同じだけの罪を背負う覚悟をしなくてはならないが、それを遂行したときにはイエスはもういないかもしれないのだ。