The Flatliners「Destroy To Create」

私はゼロ年代に青春時代を過ごした。
MDが急速に普及して、ほんの数年でmp3に取って代わられたあの時代、パソコンを介して音楽を聴くことに強い抵抗があったことをよく覚えている。
やがて、テクノロジーに疎い私の家にもインターネットが通り、私はそこから様々な知識を手に入れた。フォトショップイラストレーターが根本的に違うものだということを知り、MDとmp3は仕組みとしてはさほど変わらないということを知ったのだった。

インターネットに生涯があるとするなら、私たち世代は未熟なヤングアダルトの頃をインターネットと同じくしたといえる。あの頃のインターネットはまだ広く開かれたコミュニケーションとは言えなかった。
若さのまどろみの中で、若者達の多くは情報にアクセスする術も知らず、自らの生きる社会の冷酷さの度合いを掴めないままに、それを果てしなく強大なものと捉えていたのではないか。

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振り返ってみると、ゼロ年代は、いわゆる自己責任論に象徴される新自由主義的な価値観が最も若者に内面化されていた時期だった。ある意味、現在の若者の方がまだ新自由主義を相対化できていると思われるが、それはSNSの発達によるものが大きいだろう。
スマホが登場するのはゼロ年代も後半になってからで、SNSはそのもう少し前からあるにはあったが、趣味のサークル程度の役割しか果たしていなかった。ユーチューブも、仕組みはわからないものの、そこにアクセスすればミュージックビデオや見逃したドラマ・アニメが見られる、というくらいの認識の人がほとんどだったはずだ。

それが10年代に入ると、スマホの普及とともにSNSが爆発的に社会に浸透することとなり、得られる情報の範囲は格段に広がった。そこでは社会保障制度に関する情報も多く紹介されていたし、「今よりずっと大変だった」と根拠もなく思い込んでいた80年代の労働環境が案外のんびりしたところもあったのだということを知ることもできたのだった。

ゼロ年代とは、インターネット上でそのような盛んなコミュニケーションが確立される以前の時代だったわけだ。

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そんなゼロ年代のど真ん中である2005年に、The Flatlinersのデビューアルバム「Destroy To Create」はリリースされた。ハイティーンの少年達が発表したこのアルバムは、全編を通してスカパンクまたはメロディックハードコア(メロコアと略される)の楽曲で構成されていて、さらにいえば、ほとんどの曲がスカパンクだ。

スカは裏打ちのリズム(「ンチャンチャのリズム」と表現されることが多い)を特徴とするダンスミュージックであり、いわゆるルーツミュージックでもある。そして、スカとパンクが混ざったものがスカパンクだ。スカパンクメロコアは楽典的に見れば違いの多い音楽だが、隣接したジャンルと見られることが多い。

当時日本では、一つ上の世代で爆発的にヒットしていたスカパンクメロコアといったタイプの音楽は既に下火になっていた。アンダーグラウンドでは流行前から現在に至るまで絶え間なく継続してきたシーンがあるはずだが、多くのハイセンスな若者たちはそれらのジャンルを時代遅れの音楽と捉えていただろう。
一方、同じくストリート系の音楽として流行したヒップホップも、J-POP化したグループを除けば、オーバーグラウンドのフィールドからは完全に退いていた。

ところが欧米ではむしろヒップホップはポップミュージックのメインストリームとなっていたらしい。
メロコアスカパンクの状況については良く分からないが、名の知れたバンドのユーチューブでの再生回数から察するに、日本と同じく、ブームの頃の勢いはなくなっていたのではないかと思う。

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新自由主義のひろがりとヒップホップの流行に何らかの相関関係を見るのは私だけではないと思う。ヒップホップは他と比べて明らかにタフな音楽だからだ。ヒップホップのそのタフな感じは、苛酷だが華やかでもある自身の身の上を歌うギャングスタラップに顕著ではあるが、その歌詞のハードさよりも、ヒップホップ特有の楽曲製作ーーサンプリングされた複数の音源を組み合わせ、それをリフレインすることで作られたバックトラックにラップを乗せるーーのスタイルそのものに起因するところが大きいだろう。
ヒップホップにはハードな現実を受け入れた上で、そこでサバイブしようとするようなたくましさがある。

一方で、自らの生きる社会に冷酷さを見るが、それに耐えるだけの強さを持たない若者もいる。
現実的だがだらしないこの手のタイプの若者にとっては、あの時代、未来は絶望的に見えていただろう。
「Destroy To Create」にはそんな殺伐とした感じがある。

通常、スカパンクの楽曲は、パンクと混ざることで攻撃性が増してはいても、自身のルーツであるスカのダンサブルなフィーリングや、いかにもルーツミュージック由来の豊かな情緒を残しているものだが、「Destroy To Create」の楽曲からは、スカの持つこうしたニュアンスが削られている。

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“we got a heart and mind to mix in with a gasoline”
このハイカロリーなフレーズで各コーラスが締めくくられる「Fred's Got Slacks」で、アルバムは幕を開ける。
過剰に早口なボーカルメロディで2分半を駆け抜けるこの曲は、リズムパターンに注目すればスカナンバーだといえる。しかし、そこにはスカ特有の、自然に足が踊り出すような感じがない。

踊れないのは速さのせいではない。このアルバムの中では比較的テンポの遅い「Gullible」も同様に踊れないし、世代はいくらか上だが同じくスカパンクのバンドであるKEMURIの「Ohichyo」は、「Fred's Got Slacks」よりもずっと速いが踊れる感じがある。

踊れなさの一つの要因は、メタル由来と思われる、ニュアンスを殺した硬質なドラムプレイだろう。
この性急で攻撃的だがのっぺりとしたサウンドは、ファンからさえ“音が安っぽい”と批判されることの多いMetallicaの「…And Justice For All」のドラムを連想させる。

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このニュアンスに乏しいサウンドには、譜面上で表現できるもの、つまりテキスト的なコミュニケーションしか信じられないような心理状態が表れているように思える。

自分と関係する人々を、上手くあしらうべき対象としてしか見られない感じ。
あるいは、契約関係としてしか人との関係を捉えられないーー「説得」や「交渉」といった言葉が、互いの利害に関係する手札による駆け引きしか意味しない、つまり「心を込めて諭す」というような対話があり得ないーー感じ。
これがゼロ年代の若者を捕らえていた気分ではなかったか。

いかに苦しい労働でも、納得の上でその職についたのだから耐えなくてはならないし、納得がいかなくなったのであれば四の五の言わずに辞めるべき。労働運動がすっかり時代遅れのものとなってしまっていたあの頃、社会はそんな気分に満ちていたと思う。

このような気分は、ひとつには「無駄は省くべき」との価値観から来ていたような気がする。
現状に不満を抱いたとき、相手に説諭の余地がないとするなら、損得勘定によって落としどころを見つけるほかない。そうだとすれば、初めから結論は決まっている。言い争うのは無駄だ。

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理不尽な社会に対して音楽でもって怒りを表明するというとき、ルーツミュージック的なフィーリングは有効だろう。ルーツミュージックの豊かな情緒には団結を促し、心を鼓舞するものがある。
しかし、「Destroy To Create」にはむしろ団結を拒むような感じがある。このアルバムは全編を通して怒りの感情に満ちているが、その怒りは明確な対象を持っていない。

特に対象がなくとも怒りを抱えているのが青春時代であるともいえるが、青春という言葉で表現される若さに由来する怒りは、抑圧者としての大人全般に向けられるものであり、どこかオーソライズされていて、そこには誰かの理解を期待する感じがある。
「Destroy To Create」に充満する怒気はそういうものともちがう。それは何だか皮肉な感じで、自らの怒りの正当性に関心が無いように見える。

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一般的に、ルーツミュージックに対してはリスペクトがあるべきとされるが、彼らにルーツへのリスペクトは無いように思える。単に結成当時に流行っていたジャンルだったからやったに過ぎないという感じがする。しかし、彼らはそれを自覚していたのではないか。

当時のリスナーもそんな風に感じたのか、このアルバムをスカではないと評する意見もある。しかし、私はそうは思わない。
ほとんど楽典的な要素(つまり「ンチャンチャ」のリズム)しか残らないところまで、スカ的なフィーリングを削ぎ落としていながら、それでもほんのわずか、スカのフィーリングが残っている。
これらの楽曲は、自身がそのルーツとする音楽と本来は共有し得ないフィーリングを切り捨てることで、むしろ強く、ルーツへの敬意を示しているように見える。